僕は竹の為に行動している。これは竹を通じてその土地であり、大地であり、地球(アース)のために行動していることになる。
草木は根で大地とすべてはつながっていて、根を張るものはすべて地球をとおしてコミニュケーションしているといわれるからだ。
ECOという言葉があるが、使っている我々は本当に地球の為にECOを認識しているのだろうか?
私たちは本当に子供の為に良き遺産として地球を大切にするという概念でECO活動というものをすすめているのだろうか?
純粋に人類が地球の為に行動する生き物なのだろうか疑問である。
我々は大脳新皮質が過度に発達した利己的な生物だとしたら、地球には悪影響を及ぼす存在なのではないだろうか?
今の人間の存在が一番、地球からみたら迷惑なんじゃないのかとおもう。
自然を壊し、自分たちの都合のいいように作り変ええて、絶滅種を増やしてきたのではないか?
西洋文化の特徴に 厳しい自然に対しそれを乗り越える為に科学を推進してきた。
自然と対峙し、それを乗り越える為に自然を研究し、さまざまな機械や装置や道具や薬や食糧をつくりだしてきたのだが、
本当に自然の中に生きる人間に役立っているのだろうか?
また、どんなに自然に打ち勝ち、防御システムをつくっても、自然のはかりしれない力の前になすすべのないときもある。
西洋でもそのことにみんな気づき始めているのではないか?
日本の和の文化には 自然と対峙するのではなく、自然を恐れ敬い、自然に調和するスタイルがある。
そして、大脳新皮質ではなく古い脳幹(たとえば、感性とよばれるものなど)を働かせ、自然からの恵みを大事にする。
古代には信じられないぐらい合理性にとんだ生活様式や建築様式が存在している。
万葉集など歌を見るだけでも 古代人の感性は今の我々には到底及ばない豊かさがある。
古代人の方が自然と調和するうえでの知能が特化していたのではないか?
私の疑問への回答はすぐにでないものだろう。でも、私は直観で思う。我々はこれ以上大脳新皮質を肥大させないようにバランスの良い、つまり、自然と調和する脳幹を発達させて、食文化変革を行うべきだと。
言い方をかえれば、 人類の利己化を抑制するために 大脳新皮質の暴走を抑えることだと思う。そして、それには生活環境と食物に大きな寄与するのではないかと推測している。
和食や日本の古い文化にはとても理にかなった点が見られる。それは利己的に合理性をもとめた結果ではなく、自然に素直によりそったり、感じる結果としてもたらされる合理性なのである。
なので、自然との対峙や対決がないので自然にもヒトにも無理が生じない調和が存在する。
自然との対話 大地や空との対話 それは五感と古き脳幹を駆使して行う人類の生きる為のすべだと思うのである。
そこに 究極の合理性や調和性をもつことが、自然である地球に暮らす為に必要なことだと思う。
それに気づき、それを 教え広めることが 宗教や政治の役割であり、原点だと思う。
そして、そのことが実践されているかと言えば、答えは NO だと思う。
さらに誤解を恐れなく言えば、本当に憎むべきは 我々の大脳新皮質の暴走をコントロールできないことにあるのだと思う。
我々は古代や古い調和型の文化から コントロールし、古き脳幹にある情報を読み戻す方法をさぐるべきである。
すでにそのことに気づき、自然と対話する能力を持った 古き記憶をよみがえらせるものがある。
それが私にとっては 竹であり。 竹の子だと思う。
その存在は 自然が人類に与えた最後のチャンスかもしれないと思うこともある。
これは私の竹をめぐる冒険の序章とする。
つぎは 第二章へすすめます。それが竹プロジュエクト。ご期待ください。
もうすぐ春。地球とつながった、たくさんの竹の子が待っています。
合掌
たけのこ大使(自称) 莞鳴