〒610-1121 京都市西京区大原野上里北ノ町1262
営業時間 : 11時30分~22時00分(入店は20時まで)
定休日 : 月~木曜日の間で不定休
江戸時代が終わりを告げ、明治と改められ、ちょんまげからザンギリ頭へと文明開化のすすむ明治五年(1872年)、うお嘉は文明開化の足音とともに産声をあげた。明治、大正、昭和の激動の時代を超え、平成へと代々引き継がれた「うお嘉」の歴史がここにあります。また、うお嘉にご来店いただいた際に一筆お書きいただいた文化人の方々の芳名録の一部をご紹介させていただております。
うお嘉の創業者は小松嘉吉である。当時、20代の若き商人であった。大阪から京都の丹波に抜ける丹波街道沿いの大原野の「宇乃山」にあった宮相撲の力士の屋敷を譲り受け、うお嘉を開業した。当時、周囲は竹やぶばかり、さしずめ、雀のお宿といった場所。しかし、交通の要所で、多くの旅人の休憩、宿泊場所、旅籠として利用された。当然、酒の肴には春のたけのこ(筍)がだされ、旅人の食を満たした。
ラジオ放送や活動写真が街にでまわり、大衆文化が咲き始める大正時代、初代嘉吉の息子・嘉三郎がまだ幼く、娘婿の小松重助が2代目として、うお嘉の大黒柱となる。この当時は会合や寄合いが多くなり、宴会が盛んに行われるようになる。また、冠婚葬祭には家や寺に料理人を送る仕出し業も行い、地域に密着した料理屋となる。
終戦後の復興時、食料不足のなか「うお嘉」を再興したのが、三代目 小松 嘉三郎(かさぶろう)である。戦争がおわったら、必ず店に来いといっていた戦友にふるまった料理がたけのこ(筍)料理だった。当時、食料不足のなか、たけのこだけは店のまわりに豊富にあったからだ。えぐみがなく、甘いたけのこ(筍)は遠方からの戦友だけでなく、多くの人に大好評となった。
やがて、時は1970年の大阪万博を契機にうお嘉はたけのこ料理の専門店として、文化人や著名人に知られ、全国の郷土の料理の紹介を雑誌、テレビが盛んに行い。嘉三郎はたけのこ料理を雑誌やテレビにて紹介するようになった。
昭和58年うお嘉は株式会社となり、嘉三郎は息子・弘一良に家業を譲った。4代目の小松 弘一良は若いうちから京都の嵐山の料理亭に修業に行き、三代目から引き継いだたけのこ料理をさらに洗練させていった。素材の吟味や素材を生かす技術、料理の美しさやおもてなしを研鑽しつづけている。また、うお嘉の竹やぶの手入れやたけのこ堀りも自らでおこない。たけのこ(筍)との対話を今も欠かさない。
皇室のお歌の御指南をされた五島 茂・美代子ご夫妻にご来店いただいたおり、当店のたけのこ料理を召し上がり、その味にいたく感動され、その場でお二人は歌を詠んで下さいました。ご夫妻でのたけのこの歌を詠み合わせされた貴重なものです。また、各界の文化人の方にも筆を取っていただき、その場でお書きいただいた貴重なもので、店の宝として今も大切に保管しておりますが、WEB上のみ見ていただけるようにいたしました。
このほか、ご紹介できない著名人の皆様のサインもたくさんございます。また、サインはございませんが、多くの文化人の方もにお越しいただております。今も昔も、一期一会の精神でおもてなしさせていただいておりますが、全ての皆様がお越し頂いたことが、手前どもにとって永遠の宝であると三代目 嘉三郎は申しておりました。
※50音順となっております。
※敬称略させていただきます。